「スポーツはみんなのもの」を基本に、サッカーを通した社会貢献活動を行う北澤さん。人生のターニングポイントがもたらしたものとは?
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トークセッション
vol.38
2023 early spring
Talk Session
北澤豪
サッカー元日本代表選手、
日本サッカー協会理事
北條元治
あのときの衝撃から学んだのは利他の精神
厳しい環境での勝負が自分を成長させる
- 北條
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私が子どもの頃、スポーツといえば野球で、サッカーはまだなかったといってもいいくらいでした。北澤さんは私より少し年下ですが、日本ではまだマイナーだったサッカーの道に進むきっかけは何でしたか?
- 北澤
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僕も小さいときは野球をやっていたんですが、小学生のとき、親父のすすめで地元のサッカースクールに入りました。親父としては、落ち着きのない僕には、一つのポジションにいる野球より自由に動けるサッカーのほうが向いているだろうという思いがあったようです。
僕は東京・町田市の生まれで、たまたま地元に読売サッカークラブというスクールがあり、移行しやすい環境だったことも影響しているでしょうね。
- 北條
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確かに町田市は地域でサッカーが盛んでしたが、全国的に見ると圧倒的に野球の時代。それだけに92年のJリーグの発足は印象的でした。実は、Jリーグ発足前に、テレビで放映されていた北澤さんの特集番組をよく覚えているんですよ。最強豪である読売クラブ(現・東京ヴェルディ)に所属したのはなぜかという質問に対して、北澤さんは「最強だから選んだ」ということを言っておられて。すごいなあと思いました。
- 北澤
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ありがとうございます。そうですね、当時の読売クラブはプロフェッショナルな意識が高く、向こうから何かを教えてくれるような甘さはありませんでした。そんな環境の中で勝負したいと思い、入りました。
- 北條
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その番組の後、北澤さんをウォッチしていましたが、選手として勝ち上がっていったので、やはりすごいと。
- 北澤
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でも、半年くらいは試合に出られず、自分では間違ったかなと思いましたけどね(笑)。もっといい条件やポジションを与えてくれるところもあったので。ただ、どこに行っても3か月くらいで勝負しないと自分のポジションはとれませんから、結局やることはどのクラブに行っても一緒なんです。
- 北條
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その後、ワールドカップを目指して衝撃的な挫折もありましたね。
- 北澤
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93年のドーハですね。
- 北條
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はい、ワールドカップのアジア地区最終予選の最終戦で日本代表が終了間際に同点に追いつかれて、あと一歩のところでワールドカップ出場を逃した出来事です。あのときはまるでドラマのような幕切れで、30年経つ今でも鮮明に覚えています。ラモス選手がグラウンドに座り込んで立てずにいた姿とか。
- 北澤
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若い選手なら次のチャレンジがありますが、ラモスさんは自分にとって最後のワールドカップだと思い、人生を賭けていましたから、あのような崩れ落ち方になったんだと思います。僕自身、あの姿を見てサッカーに対する意識が変わりました。それまでは自分のためだけにサッカーをしていましたが、わずか10秒で負けを喫したあの瞬間から、悔しい思いをした人のために自分がやるしかないと思うようになりました。
- 北條
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北澤さんのサッカー人生の中でも大きな節目だということですね。
循環のシステムがJリーグ発展の礎に
- 北條
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Jリーグが発足するまで、日本のプロスポーツといえば野球でしたが、サッカーはしっかりと商業ベースに乗せていき、今では野球より優位に立っていると思います。今に至る状況をつくり上げたプロセスもすごいと思います。
- 北澤
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確かにJリーグの発足によって、訓練的な体育ではなく、楽しむためのスポーツだというふうに価値観が変わっていきました。ただ、発足当初は、これまでそういう歴史を辿って来なかった日本に、どうやってJリーグを受け入れてもらうかが大きな課題でもありました。
- 北條
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それが今ではしっかり全国に根付いて、商業的に大成功しています。企業主導の印象がある野球に対して、サッカーは地域で盛り上げるスポーツであって、ファンをサポーターと呼ぶということも新鮮でした。ただ、今でこそ大成功といえますが、その道のりはやはり楽ではなかったのでしょうね。
- 北澤
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そうですね。サッカーを地域のシンボルにするには、サッカーによって還元される循環型の仕組みが備わっていることが大事です。例えば、僕らの次の世代の選手が地域で育つことも、その一つです。ただ、その循環がちゃんと成り立っているかどうかは、世代交代しないと見えてきません。時間がかかるんです。その中で、今ようやく次代の選手が育っていることが見えてきて、活躍している選手をロールモデルに、その地域でまた次の世代の選手を育成するという段階に来たと思っています。
- 北條
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なるほど。その意味でいうと、JリーグにはJ1の下にJ3まであり、さらに毎年入れ替え制でクラブの昇格や残留が決まりますね。
- 北澤
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はい、Jリーグ発足時は10クラブでしたが、今やJ3まで入れて58クラブあります。さらに、おっしゃるようにJ2の上位2チームは自動的にJ1に昇格され、J1の下位と入れ替わります。そして、J2の3位から6位までの4チームがプレーオフに出て勝ち上がったクラブがJ1の16位(下から3番目)と戦います。このとき、上位のクラブが引き分けたら優位となるので、下位のクラブは絶対に勝たないといけない。下剋上も置きますから、プレーオフは面白いと思います。
共生社会の実現、第一歩はスポーツから
- 北條
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今日の対談のテーマは「今につながるターニングポイント」というものなのですが、端から見ているとサッカー選手にとってはワールドカップが一つの節目になるように思えます。実際、サッカー選手にとっても、ワールドカップはターニングポイントになり得るものですか?
- 北澤
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なりますね。やはり4年ごとにやってくるものですから、選手にとっては世界のトレンドを4年というスパンで追っていくという感じになります。
僕の場合は、その中でも初出場した98年と、02年の日韓共催ワールドカップが大きいですね。特に日韓共催は、サッカーを始めてから、ワールドカップは世界に出ていって戦うものだと思っていただけに、日本で開催できるというのがまず衝撃でした。しかも、アジア初の開催になったことで、アジアサッカーのレガシーを考えるいい契機にもなりました。アジアは国の数が多いし、経験を重ねて技術を磨けば優勝する大陸になると思います。日韓共催を、それに至るターニングポイントにしないといけないと思っています。
- 北條
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日韓共催は北澤さん自身のターニングポイントでもあるわけですか?
- 北澤
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はい、僕個人のターニングポイントです。今、僕はサッカーの指導者派遣やアジアの途上国支援を行っていますが、そうした活動のベースにはあの日韓共催の経験があります。それに日韓共催があった02年には「もうひとつのワールドカップ」といわれる、知的障がい者によるサッカー世界選手権も行われていて、そこに僕もテクニカルアドバイザーとして参加していました。そこから障がい者サッカーに進んで行ったので、大きな節目になっています。
- 北條
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確かに、これからは障がいのある人にもサッカーを開いていかないと、全体の底上げにはならないでしょうね。障がいのある人を排除するのではなく、「皆等しく」という社会にならないと。ただ、実際には難しさもあるとは思いますが。
- 北澤
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企業は役割として、障がい者にどうやって仕事のポジションを与えていくかという視点が求められますが、スポーツの世界では頭で考えるのではなく、「一緒にできる」という部分があり、ユニバーサルなデザインが描きやすいと思います。その中で大事なのは、子どもの頃にスポーツを通してお互いを理解し、よさを見つけ合うような経験。その経験が後々、仕事をする場面で生きてくると思うんです。
今は教育の現場でも障がい者との接点が少ないので、理解しようと思っても難しいと思います。でも、スポーツを通して知り合えば、プレーする中で「この人にはこういう協力をしてあげようかな」などと察することができます。そんな経験を子ども時代に持ってほしいと思いますね。
- 北條
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知的に健常であったとしてもお互いを認め合うことが難しい中、接点がないまま、障がいがある人と関わっても、理解が難しいのは当然ですよね。その点、一緒にスポーツをした経験が子どもの頃にあれば、通常の人間関係の中で認め合える素地が大きくなりそうです。
- 北澤
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実際、僕はサッカーの場面で彼らとつきあうことが多いので、障がいがあることを忘れています。最初は気にしながらつきあっていても、今ではまったくそういうことが気にならずに、同じ時間を共有しているんです。こういう感覚って必要だと思います。それって、障がい者問題だけではなく、全体につながると思いますから。例えば、これからますます高齢化が進む日本では、インフラを整備して、誰にとっても使いやすい社会制度にしないといけません。スポーツから他者への理解力を高めることで、今の子どもたちが大人になるときには社会全体のユニバーサルデザイン化が進んでいくと思います。
- 北條
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ちなみに、北澤さんの現役時代から、海外ではそういうインクルーシブ(みんな一緒)な環境にあったのでしょうか?
- 北澤
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そうですね。エピソードを一つお話しすると、現役時代、リハビリでオーストラリアに行き、プールに入っていたら、クレーンで車椅子の人が運ばれてきたことがありました。それをぼーっと見ていたら、その場にいた人から「おまえ、手伝え」と(笑)。向こうでは、そういう場面では手伝うのが当たり前なんですね。そのとき、全然日本と感覚が違うんだなと感じました。こういう違いって、世界に出てみないとわからないもの。海外を見るというのは、その意味でも大切だと思いますね。グローバルな感覚を得るというのは技術向上だけではなく、何がスポーツとして大事な価値なのかがわかることでもありますから。
北澤さんが思う“本物”の定義とは?
北澤さんの宝もの
「日本代表の統一ユニフォーム」
- 北條
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ところで、素人目でみるとヨーロッパのサッカーは強くて、どうしてもアジアはその1ランク下という感じがあります。それは競技人口の厚みの違いなんでしょうか? それとも教えるシステムの差ですか?
- 北澤
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どちらもあると思います。ヨーロッパではアジアに比べてサッカーの歴史も長いので、その違いもあるでしょうね。サッカーのスタイルとして「ドイツらしさ」「スペインらしさ」というとイメージがつきますが、「日本らしさ」といわれてもクリアにわからないことが、それを物語っていると思います。ただ、「韓国らしさ」と「日本らしさ」が違うことはわかるし、「中国らしさ」と「日本らしさ」も違う。選手のスタイルが体系化されてきたことで、今はだんだん「日本らしさ」が明確になってきたところだと思っています。
あと、ヨーロッパと日本でいうと、選手の育成システムの違いも挙げられますね。日本はピラミッド型で強化するという考え方。なので、裾野が増えれば、それだけ頂点も高くなります。
- 北條
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そうですね。
- 北澤
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それに対して、ピラミッドのまわりに全体を覆う網目があるのがヨーロッパの育成システムなんです。結局、上に上がれなかった人たちをどうフォローするかも考えている。事故や病気などで競技を続けられなくなった人にもサッカーの場を提供するという考え方です。
- 北條
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組織として見ると、そのほうが断然強いでしょうし、強い組織から強いチームが生まれるのは間違いありません。
- 北澤
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そうですね。そういう仕組みがあると、皆サッカーを応援しようと思うでしょうし、サッカーがそうなると、スポーツに対する意識が変わって、ほかのスポーツも人は応援し始めると思います。
- 北條
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上手下手に関係なく、もともとスポーツは本能的に誰もが好きなもの。ですから、おっしゃるようにトップチーム以外をフォローする仕組みがあると、日本は今とは違うステージに入ることができるのかもしれませんね。
今日、北澤さんとお話しをして、とても理論的に物事を考えておられるんだなと思いました。そして、繰り返しになりますが、日本のサッカー創世記の混沌とした中でやってきたパワーはすごいものがあると改めて思います。今に至る思いの源泉には、やはり93年のドーハでの経験があるのでしょうか。
- 北澤
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そうですね。あのときワールドカップに進めなかったからこそ、選手じゃないメディアやパートナー(企業スポンサー)といった人たちが、4年後のワールドカップに協力しようという空気が生まれ、それがJリーグの発展につながりました。プロスポーツの商業化を支える体系として、「する人」「見る人」「支える人」というのがありますが、その体系があのドーハの経験で生まれたと思っています。
- 北條
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最後に、うかがいたいのですが、北澤さんが思う“本物”とはどういう人ですか?
- 北澤
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これまで話してきたことは、自分の経験から考えたことでもある反面、人から受けた影響によるものも少なくありません。カズさんもラモスさんも、ああ見えて実は利他的な精神が強い人間。誰かのためにプレーするのと、そうじゃないのとではプレーの質が違います。つまり、本質のところで利他的な精神を持っている人が、僕は本物だと思いますね。
- 北條
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利他的であるというのは難しいことですが、北澤さんのお話から「正義」や「公平」といった言葉が浮かび、共感します。今日は充実したお話を、ありがとうございました。
北澤豪 プロフィール
1968年東京都生まれ。読売クラブ(現:東京ヴェルディ)で活躍。日本代表としても多数の国際試合で活躍した(日本代表国際Aマッチ 59試合)。03年の現役引退後は社会貢献活動にも積極的に取り組み、サッカーを通じて世界の子ども達を支援できる環境づくりを目指している。(公財)日本サッカー協会理事、(公財)日本サッカー協会 フットサル・ビーチサッカー委員長、(一社)日本障がい者サッカー連盟会長。2022年、日本初のeスポーツ専門の高等学校 「eスポーツ高等学院」名誉学院長に就任。
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